今日の勉強

2013年11月17日 (日)

畑の前にビックリな物が!

当布教所には離れが有りまして


畑の前…というよりは横といいますか。



数ヶ月前に引っこ抜かれた木の根っこが置いてあって

その根っこの前に大変丁寧な置き方である物が置かれて居ました
Cocolog_oekaki_2013_11_17_11_46
全体をかなり適当に図にするとこんな感じ
木の根っこに優しく囲まれるように置かれていたその正体は
なんと!!


ビールの空き缶…


側溝や畑の付近
要するに、入口から近い所にゴミが捨てられているのはよく目撃されますが…
あんな所に捨てたということは
ワザワザ10メートルほど歩いて丁寧に置いていってくれたようだ
そこまで歩く労力を使うのなら、同じくらい歩けば自販機の横に空き缶のゴミ箱があったんだが…
ちょっと目立たないから仕方ないか
でもそこまでしなくても入口付近にでも置いてってくれれば始末したのに( ̄▽ ̄;)




そのゴミ
ありがとうございます!喜んで始末させて頂きます!




空き缶は資源ゴミなので、洗って捨てさせて頂きます


ゴミを見せて頂けた
目が見える親神様のご守護に感謝!
ゴミを流しまで持って行けた
親神様からお借りしている体に感謝!
ゴミを洗う事が出来た
親神様の水のご守護に感謝!








え?



「藤太郎ごときがそんな心遣い出来るわけがない」


とか思ってません?
いや、ボクでも思ってます
ゴミを見せて頂けた
目が見える親神様のご守護に感謝!

ゴミを流しまで持って行けた
親神様からお借りしている体に感謝!

ゴミを洗う事が出来た
親神様の水のご守護に感謝!

↑これはちょっと言い過ぎました
こんなことまで考えられる心持ってません



でもゴミの後片付けは喜んでさせて頂く事が出来た



なぜか!
その答えはこちら
父から教えてもらった心遣い



一瞬だけ「オイオイ」とかちょっとよぎったけど

すぐに切り替え、喜んでさせて頂く事が出来た




世間に居たらこんな心遣いでゴミ拾いなんて出来ません

いや、むしろ捨てられたゴミを目立つ場所に置いて

「自分のゴミくらい自分で始末しろ!」


とでも書いた看板立てて

意地でも自分では片付けなかったでしょうね。



そして不足した分は自分にも降りかかって来ます



しかし、こうしてお道の上にお連れ通り頂き
曲がりなりにもお話を聞かせて頂いているお陰で


こうしてどんな事でも(上っ面だけですが)喜びの心で受け取らせて頂く事が出来る



その心が神様にお喜び頂けるのであればこんなにも素晴らしい事はない



なんて…
そんな事を、空き缶を洗いながら柄にもなく考えて居ました。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年7月16日 (火)

おさしづにお伺い

先日ふと気になった事が有ったのでおさしづにお伺いしました。

心を落ち着けて、余分な人間心を出さぬよう、真に神様のお心を求める気持ちで開く
必ず何か教えて下さいます。


神殿でお願いをして、手に取ったおさしづの本のページを適当に開く

しかし、全く関係無さそうなおさしづが出ました。


何か真実が足りなかったかも知れない
もう一度心を落ち着けておさしづを開いたところ、まさにそのお伺いにピッタリなおさしづが有り、その件は無事に済みました。

教えて頂いた事をお礼してその場はそれで終わったのですが、どうしても引っかかる事が有った。



それは、最初に開いた全く関係無さそうなおさしづに書いて有ったお言葉
「妬み嫉みが醜い」
というようなお言葉でした
(偶然開いてそのまま閉じてしまったため、何年何月何日のおさしづか覚えてない)
ボクはどっちかと言えば、良くも悪くも(自他共に認める)ドライな性格
嫌なことが有っても大抵の事はすぐにどうでも良くなってしまうし、空気も読むのも下手

妬みだの何だのとはほぼ無縁な性格だと自分では思っているので、全く心当たりの無いおさしづ




何故そんなお言葉が突然出てきたのか

今まで読ませて頂いた中でそのような言葉は滅多に出てくるものでもない


それだけに印象に残り、もしかしたらあれは親神様がボクに何か教えて下さっているのではないか。


あまりにも気になったのでもう一度おさしづにお伺いしてみる。



しかし、これまた全く関係無さそうなおさしづばかりが開かれる。



これは一体どういう事か

そこでふと、自分の心に目を向けてみた

毎週、月水金はボクら入り込みの者が朝づとめの後にお話をする

ボクは神様にお伺いしながらも
「これは上手く行けば今度の俺の話の番でいいネタが出来るのではないか」
「しかも、あわよくば『ほほう!藤太郎がいい話をするじゃないか』ぐらいに思われるのではないか」
こんな汚い感情が入り混じっていました

これでは神様に受け取って頂けない!


よくお詫びをし、もう一度お伺いをする

あれはきっと神様がボクに何かを教えて下さっているのだから、しっかりと受け取らせて頂かねばならない。どうか教えて下さい。



そうお願いをして、ふと、手に持っているおさしづの本(閉じた状態)に目を落とす
すると、ほんの少しだけ隙間の有るページが有った

そこを開いてみる

そこにはこのように書かれていました

さあ/\又々話し掛ける。随分々々綺麗な/\、日々綺麗な事は誰も好く。くどいくどい話せにゃ分からん。何名何人の中、万事に一つの理が欠ける。治まりた心生涯の理治めるなら十分の理、何も言う事は無い。今まではそも/\であって、見難くうて/\どうもならなんだ。年限を待ち兼ねた。秋の大祭や、春の大祭や。待ち兼ねた/\。戻る子供の真実ありゃこそ、何事も無く治まりてある。これ働き有るか無いか、思やんしてみよ。可哀想に/\どういうもので、雨が降る風が吹くと思うやろ。よう思やんしてみよ。中に綺麗なものは誰も好く、神も好く。神も好くような心なら、こりゃ障りやどうやとは無いもの。これだけ早く諭したら、十分諭しあれど、ほんのその場だけ聞いただけでは、どんならん。これが第一どんならん。これより真を定めてくれるなら、何も怖わき危なきは無い。これからよう改めてくれ。何かの事もこれから、何人々々扱い、事務所、詰所、何人頭数あろが、笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。よう聞き分け。


今年の年頭の記事(アホアホでいいんじゃない)にも書きましたが、ボクは役立たずです。

そして弟は間に合う人間です。


大事な用事等は弟がよく頼まれます

ボクが目の前に居るのに「○○君は?」と聞いてくる
用事を聞くと「~を頼みたい」とか言う

おい!

そんなもん俺にも出来るわ!


そして雑用等はボクが頼まれる

目の前に弟がいたってわざわざボクを探してくる
用事を聞くと「~をやって欲しい」とか言う

おい!
何も俺じゃなくても弟がそこに居たんだからそっちに頼めばいいだろ!


毎回とは言わないが大体こんな調子
それがとても嫌だった



しかし、仮に俺が大事な用事を頼まれたところできちんと出来るのか?

何かしら一つ二つ抜けてる事が多い
毎日のやるべき事も出来てない事が有ったり


そりゃ相手にしてみれば不安の残る奴に頼むよりは、きちんとこなし、しかもよく気がつく方に頼みたいだろう
雑用なんかは他の用事で忙しそうな者よりも何だか雑魚っぽい奴の方が頼みやすいだろう

それは当然の心境

でもそれが気に入らなかった




ボクは知らず知らずのうちに妬みの心を使っていたのです

ボクは間に合う人間目指してここに居るんじゃない
神様にお喜び頂けるよう
僅かながらも神様のお役に立てるよう

それが目的のはず(それすら出来ていないのですが)



いつの間にか神様に残念に思われる心遣いをしていた

きっと神様はそれを教えて下さったのでしょう



「笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。」
先日弟がある方とちょっとした言い争いになりました

当布教所女性陣の裏ボス的存在の人です。

多分入り込んで30年は立つと思われる大ベテラン


普段は仲がいいのですが、ちょっとした事から言い争いになり、最後には弟が折れて謝っていました。
その時に父に相談したらしく、父からの言葉は
「皆仲良くが神の望みと教えて頂いている」
とのことでした。

その言葉から反省した弟は、それ以来態度を改めたのですが

確かに兄弟同士で醜い心を使いあっていて、きっと神様はボクらに残念な想いをしておられた事かと思います。


「笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。」


皆が笑って陽気に、助け合い、支えあって暮らす事が出来ればきっと神様もお喜び頂けるはず


そんな風に反省しました


▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼


ここで今更本題ですが


父の影響から
ボクは何か分からない事があればこうしておさしづにお伺いしようとする
「さしづ通りにすれば間違う事は無い」

とのお言葉もある通り、どんな事もおさしづにお伺いし、それに従って通ることが大事だと思います。


しかし、周りの人達を見ていると、身上事情を見せて頂くとおさしづを開こうとする人は殆ど居ません。


先生と呼ばれる立場の人達に「お練り合い」をお願いし、「先生」もまたおさしづにお伺いする事を知らず、「勤めを増やせ」「日参しろ」それで結果が出ないと「これだけ勤めているのに何故だろう」と悩んでいます。



神様がどのような想いで理を見せて下さっているか、それを自分の考えだけでものを言っている。
ただ「助かりたい、よくなりたい」で勤めていたって何の解決にもならないのではないか

子供救けたい親神様のご守護を有り難く堪能の心で受け取らせて頂く事が大切なのではないか
そんな風に思うわけです

それは父から沢山の事を教えて頂いているからこそそう思えるのですが…




黒きは黒き赤きは赤きに連れられ





と、おさしづに有ります


人間の理を立て、人間に従う人はそのまま人間に連れられるだけです

しかし、神様の直接のお言葉であるおふでさき、おさしづに従うなら、神様が連れて通って下さいます。
常に神様を心に置いて、おさしづに従って通らせて頂くならどんな時も神様にお連れ通り頂けると教えて貰いました。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年1月25日 (金)

天理教勉強会発足

とかカッコイイ事言ってますが、現在会員は








管理人、藤太郎一人です`。*:`( ゚д゚*)ガハッ!

しかし、これから少しでも多くの信者さん方が集まり、神様にお喜び頂ける話し合いの場にしたいと願っております。




おさしづに

銘々談じ合い、たすけ一条の台、たすけ一条誠一つの理、誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが一つの理。



お道のために皆が談じ合う事を親神様はお喜び下さるのではないでしょうか。
そして、それが助け一条の台になると教えて頂 いているように思います。



すぐに人が集まるとは思いません。

暫くは自分一人だけの勉強会になるとは思いますが、人数を集める事が目的では有りません。

例え始めは小さくとも、神様にお喜び頂く事を目的とし、また、すぐにお道の心を離してしまう自分に喝を入れるためにも、この場を続けていきたいと考えております。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2012年8月27日 (月)

むさくろしい者も一時寄せてある

以前、父が書いたおさしづの解釈の一部です



さあさあいずれいずれ道を通る。この道には一時の処むさくろしい者(むさ苦しい心の者)も、残念な者も多く寄せて有る。これからは神が表へ表れて、如何なごもく(ゴミや汚れ等と思われます)も掃除するなり。掃除一条、すっきり掃除をしてしまうで、皆片付ける道具も要る。どうでも掃除をして掃き立てる。
隅から隅まで掃除してしまう。どういう事なら心の掃除や。どんな道もすっきり洗い換える。これまでにも段々諭してある。後で後悔無きように、真実の心が無ければどうにも成らんと、幾度も伝えてある。箒を持って掃除、神が箒や、人間の力ではとても敵わん。すっきり掃除が出来たなら、道は益々栄えると諭してある。ごもくさえすっきり片付けてしもうたなら、後に残るは私利私欲の無い、澄んだ者ばかりや。
(中略)
身上に、無くては成らない一つの理がある。をやの心にそむき続けて来た残念の理を払い、速やかに救けてやらねば成らん。救けてやりたくても、大きな残念の理が神の前に立ちふさがり、真実の理を通す事が出来ん。どうしてやる事も出来ん。可愛い我が子を見捨てる訳にはいかん。何としてでも救けてやらねばならん。救ける為には先ず第一に、今も尚、神に背き続ける元になっている、むほんの根を切ってやらねば成らん。根がある限り、をやの心に、真から添う事が出来ん。根を切る為に、一時の処、理を曲げてでも働かにゃなるまい。神の理によってあえてむさくろしい道の中を通さねば成らん。その中を、堪忍、しんぼうをして心を治めなければ成らん。そうやって救けようとする神の真実を、満足たんのうをして受け取ってくれるなら、その心を天に従う誠の心と受け取り、根を断ち切ってやらなければならない。そんなだんだんの道の中に、使う為の道具が要る。むほんの根を切る大切な神の道具として、むさくろしい者を使わんならん。塩を抜くには、塩を用いねば抜けやせん。なれど例え道具であっても、何時までも真実の心が治まらなければ、道の中のごもくと共に、すっきり掃除をして片付けんならん日が来てしまう。どの子も隔て無く可愛い我が子、皆々同じように救けてやりたいが、をやの理である。例え、真実の理が治まらん事を十分に見定めた上で、心通りに一時の道具として使ってやっていたとしても、皆々同じように、成らん中の重き一つの道を、最後まで通させてやりたいのが、をやの心。どんな者でも実の我が子。心通りの守護とは言え、真実の道を通してやれないをやの苦しみを、分かってくれる者は少ない。(中略)をやの真実に心を開き、むさくろしい中を、真実に満足たんのうをして治めてくれるなら、むほんの根は切れてしまうと諭して置く。聞き分けが出来んと言うなら、いずれ、身上の理に替えて果たしてやるより、仕方あるまい。よう思案して貰いたい。
むさくろしい道の中、理を曲げてでも救けようとする神の真実が分からず、人を恐れ、人間の理を先に立ててしまっては成らん。神の理を受け取って、曲がった道でも楽しんで通り抜けようとするなら、天の理に適う。天の理に適うから、曲げかけても決して切れる様な事は無い。何処までも伸びて、綺麗に治まるから何も心配は要らん。神の理が分からず、目先の事ばかり考え、我が身をかばうあまり、人を恐れたり、目の前の人間の理を先に立てて、人間の理に従うなら、それは追従(ついしょう)となって、天の理から大きく外れる。そんな弱々しいほこりの心は、神の邪魔になる。ほこりが立てば、働いてやれんように成ってしまう。追従の理が他に映ればどうもならん。道が大事、これからは月日退くと諭してある。そうならない様に、神を頼り、自ら道を求め、一人だけでも天の理を守り抜こうと言う、精神だけは、日々治めていなければ成らない。心が無ければ、働いてやる事は出来ん。

以下省略




今の天理教組織に不満を持つ方が沢山います。
しかし、その心は知らないうちに神様の親心に反していたのです。
天理教を食い物にし、信者からお供えを強要し、自分は高級車に乗りながらお救けには行かない。

そんな人が今の天理教組織の上層部にどれだけいる事か。
しかし、そんなむさくろしい人達も、世界だすけという大目標の為に、一時置いて下さっていると教えて頂きます。
塩抜きするには塩が必要です


いずれ時がくれば神様に掃除される日が来るのでしょう。
ご不満もおありでしょうが、いつまでも喜べず、不足ばかりでは自分もその人達と一緒に掃除されなければならなくなってしまうと、神様は心配して下さいます。
お辛いでしょうが、今は耐えてください。



たんのうとは「十分に味わい、満足する」と言う意味
何も辛い事を無理にでも喜べと言う事では有りません。
辛いものは辛いんです!でもその辛さをよく味わい、そこから神様の温かい親心を受け取る事が出来たなら、それがたんのうではないでしょうか?






また、人間の考えで大きな事をしようとする必要は有りません。

「神様の思惑に添わせて頂きたい。神様にお喜び頂ける通り方をしたい」

その心を神様が受け取って下さり、手を引いて下さると、父は教えてくれました。

小さな真実を積み重ねる事を神様は大きく受け取って下さいます。

常に神様の思いを求め、神様をめどに通らせて頂く事が、大切では無いかと思います。



| | コメント (9) | トラックバック (0)

2012年8月26日 (日)

天理教被害に苦しめられている方々に読んで頂きたい

以前、「天理教被害」という記事を書きました
それについて沢山のコメントを頂き、被害に苦しむ方々が今も時々コメントを寄せて下さいます。
どなたも今の現状に不満を抱き、なんとかしようとの思いを持っておられるようです。

しかし、成ってくるのが天の理です
おさしづから思案させて頂くと何よりも「たんのう」の心が第一だと思います
多くお寄せ頂いたコメントに対するボクの返事を記事としてここにまとめました

皆さんに読んで頂きたく願っております。

こちらもお読み下さい

(多少文章の変更もあります)
(この記事は現在未完成です)

━━━━━━ ※1 ━━━━━━

おやさまの御教えに背く教会長に対し、信仰心を 親神様、教祖へ向ける教会長だけが 教会長の資格があるとのコメントへの返事 その1  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

「所属教会で幸不幸が決まる。」
確かにそうかも知れません。しかし、何故そんな教会長の元へ行く事になったのでしょうか。それは、人が決めたのではなく、全て神様が決めて下さった事だと思います。
自分も両親は岐阜の生まれなのに、ちょっとしたきっかけで愛知県に引っ越して、現在の布教所に来ています。
神様が引き寄せて下さったとしか思えません。

その人の因縁に合った教会。

失礼な言い方かも知れませんが、それは悪い事ではなく、素晴らしい事ではないでしょうか。
人間はつい目先の幸せばかり考えてしまいがちですが、今の幸せに何の意味も有りません。

「にち/\にをやのしやんというものは たすけるもようばかりおもてる」
(日々に親の思案と言うものは、たすけるもようばかり思うてる)

神様は人間を真から救けたいと思し召し下さると教えて頂きます。
人間にはご存知の通り、前生からの因縁があります。その因縁を切るために通り返しの道を通らせて頂かねばなりません。
「ああして通らせて頂こう、こうもさせて頂こう」
それも結構ですが、所詮は人間が考えた事。そうでは無く、全て神様に凭れ、全てを神様にお任せして、自分は成ってきた事をたんのうの心で受け取らせて頂く事が大切では無いかと思います。
下のコメントにも書きましたが、一番辛いのは、何も知らない子供に苦労させなければならない神様だと、父が教えてくれました。
本来なら、今すぐ子供を幸せにしたい。しかし、それでは通れないほど人間には魂の徳が無いと聞かせて頂きます。
その為に神様は心を鬼にして苦労の道を与えて下さるのだと教えて頂きました。
辛いものは辛い。
でもその辛さを十分に味わい、これも神様のご守護だと、満足の心で受け取らせて頂く「たんのう」の心が大切だと思います。
それが、教祖ひながたの道を通らせて頂ける事になるのではないでしょうか。
偉そうに語ってしまい、申し訳ありません。
陰ながら応援しています。

━━━━━━ ※2 ━━━━━━

おやさまの御教えに背く教会長に対し、信仰心を 親神様、教祖へ向ける教会長だけが 教会長の資格があるとのコメントへの返事その2   コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

神殿の上に部屋を造るとは酷い話ですね。仰られる通り、普段の信仰態度もきっと神様を平気で踏みつけるような信仰をしておられるのでしょう。

実を言うとうちの布教所もよく似た事をやっています。
神殿普請の時に、神床の下にヘドロが埋めてあると聞きました。
元々田んぼを埋め立てて建設された神殿なので、神床の下には少々高額でもきちんとした土を埋めなければいけないのに、安く手に入るヘドロを埋めたのです。
周りの意見など決して聴かない所長でした。
「儂の言う事を聞けばいいんだ!」
そんな所長でした。

晩年は特に酷かったです
ボクは医者に掛かっているのですが、自分は少し怪我をすると(絆創膏でも貼ってれば治りそうな擦り傷です)入り込みの者に運転させて病院へ飛んで行くのに、ボクが病院へ定期検査へ行かせて頂きたいとでも言おうものなら2,30分は愚痴を聞かされました。
理由を聞かれたから答えたのに「言い訳するな」の一言
決して「お仕込み」とは言えない愚痴ばかりです。

何故病院へ行くのをそんなに嫌がるかと言うと、お金が掛かるからです
自分の事で金が掛かるのは平気でも、他人の為に金がかかるのは許せない。貰った手当でやっているにも関わらずです。

何故そのような人が所長でいられるのか?
下のコメントにも書きましたが)そのような人も用木を育てる為に神様が目をつぶって置いて下さっているとうちの親父に教えて貰いました。
考えてみればたかが病院へ行くのに愚痴を聞かされた。
たったそれだけの事でどれくらい因縁を切って頂けたのか分かりません。
その中を神様だけをみつめて歩んで来た事がどれだけ自分にプラスとなったのか測り知れません!
なんて有難い事なのか!

これがもしも逆に、本当にいい人で、こっちの為に親身になってくれる信仰上にも頼りになるひとだったとしたら?

神様よりも所長をめどにして、決して自分から神様の思いを求めようとかしていないでしょう。困った事があればなんでも所長に相談し、それを全て信じて解決していました。
自分の心を磨いてくれる人も見当たらず、所長の優しさに甘んじて、恩ばかりが積み重なっていた事でしょう。

あの所長であったからこそ、困った時は自ら神様の思いを求め、辛い中も喜びの心を持つことができたのです。

今はまだ夜明け前の仮の道と教えて頂きます。
本道が始まればきっとそんな人達には通るに通れない苦しみの日々が訪れる事でしょう。
それまでは大変な事も多々おありでしょうが、成ってくるのが天の理です。全て神様を信じてお通り願いたく思っております

偉そうに長々と語ってしまい、失礼しました

━━━━━━ ※3 ━━━━━━

おやさまの御教えに背く教会長に対し、信仰心を 親神様、教祖へ向ける教会長だけが 教会長の資格があるとのコメントへの返事 その3  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

お気持ちは大変分かります。
しかし、それは違うように思います。

「7分3分の理」(しちぶさんぶの理)というお言葉をご存知でしょうか?

自分も随分前に勉強した言葉ですので、上手く説明出来るか分かりませんが…

例えば!
大きな木を庭に植えるのに、十分な根が無いのでそのまま植えては枯れてしまいます。枯れないようにする為には余分な枝を切り落としてしまわなければなりません。

おさしづで

「どうしたらよい、こうしてらよいと、人間の心で出来る事は一つもあらせんで。人間の心で出けた事は一つも無いで。」

と、神様は仰られます

人間の考えで「お道のためにああするべきだ」とか「こうさせて頂こう」と考える気持ちはご立派だと思います。
しかし、所詮我々は目の前の、目に映ったものしか見えない人間です。
明日どころか、一分後、一秒後すらも分からない人間です。

そんな人間に、今からやろうとする行動が、果たして神様の思惑に本当に沿えているのかなどと、判断出来ません。
どこにどんな神様の思惑があるのか分からないのが人間です。
そんな人間の考えで何か大きな事をしようとしても、それは余分な枝として切り落とさなければなりません。

そこで「7分3分の理」です。
人間の考えで7分の事をすれば、理の働きにより、余分な枝は切り落とされ3分に変わってしまいます。

枯らさない為には切り落とさねばなりません。

それは、簡単に言えば、頑張って7歩歩いても、神様に受け取って頂く理は3歩だけだという事です。

この神様は「苦しめよう、困らせようとの神様では無い」と聞かせて頂きます。「日々に親の思案というものは 救けるもようばかり思てる」とも聞かせて頂きます。
「成ってくるのが天の理」です。
全ての出来事は神様による、世界一列を救けるための出来事です。
それを人間の考えで邪魔しようとする事は許されません

「成ってくるのが天の理」と心に治め、神様にもたれ、全てお任せし、どんな辛い事も、納得出来ない事も、神様の思惑として「たんのう」の心で通させて頂く事が大切ではないでしょうか?

人間の考えで大きな事をする必要は有りません。どんな小さなものでもひたすら積み上げた小さな真実を大きく受け取って下さいます。
その3分の真実を7分の理に受け取って下さいます。
一歩ずつしっかりと進んだ3歩は7歩として受け取って下さるのです。

それが「7分3分の理」と父から教えて頂きました。

自分達でどうにかなるものではありません。
神様の大きな思惑が有ります。

「日々に親の思案というものは 救けるもようばかり思てる」
という事は、この世は全て、どんな些細な事も、どんな大事でも、世界一列を救ける為に、寸分の狂いもなく神様が動かして下さっているのだとは思いませんか?

納得行かない気持ちも分かりますが、それは人間の考えであり、偉大なる神様の思惑の前では何の意味も持てません。

麻原彰晃だって神様の思惑だとボクは思います。
逆に麻原が出て来たのが神様の想定外でしょうか?
そんな神様では不安です!今すぐ信仰をやめます!

こうしてひまわりさんを始め、色んな方がこの記事にコメントを下さいますが、それも神様がボクの成人の為に引き寄せて下さったのだと思います。
簡単に気を抜いてしまうボクに「しっかりしろ」「気を引き締めろ」と喝を入れて下さっているのだと思います。

全て神様にお任せし、どんな事も「結構、結構」と言って通らせて頂きたいです。

ひまわりさんのお言葉
> 所属教会長は自分自身を磨いてくれる鏡だと思えと言う言葉はおやさまの御教えに努力しない教会長達の言い訳

これについても神様の思惑をおさしづから思案させて頂く事が有ります。これも後日、記事として書かせて頂きますので読んで頂けると幸いです。

神様をめどに、お互い頑張りましょう

※このコメントを書いた後に読み返したところ、書いてる途中で段々話がずれてしまっていた事に気がつきました。
本当に言いたかった事はこの話ではなく、こちらの記事をお読み下さい
むさくろしい者も一時寄せてある

━━━━━━ ※4 ━━━━━━

現在の天理教の身分制度は酷すぎるとのコメントへの返事  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

>前世の行いがいいから楽して通れる?井の中の蛙もいいところ。

確かにそうですね。

上の立場で有りながら好き勝手やってる人の話を良く聞きます
そういう人を見ると人はよく「余程徳があるんだね」と言いますが、反対だと思います。
徳が無いからどんな事をしても神様から教えて頂けない。
何か有る度に神様から教えて頂ける人はそれだけ神様から大切にされているからではないでしょうか。

生き神様とまで言われた上級教会の初代会長は「僕はちょっとも気が抜けない」と仰られたそうです。
少しでも気を抜いて自分の好きな事をすればすぐに出直してしまうだろうと仰られたと聞かせて頂きます。
それが真実でしょう。
徳が有るから背負っているものが違います。
徳が無いから何をやっても教えて頂けない。

うちの所長の息子さんもそういう人でした。
生まれた時から次の所長になる事が決まっていた人です。
所長も所長で、信者が息子に注意でもしようものなら「俺の息子だぞ!」と怒鳴っていたそうです。
酷い時はそれが原因で出入り禁止にされた人もいるそうです。
そうやって身分に甘やかされて育っているので所長以上に手に負えない人でした。
それでも自分は立派な布教師のつもりでいます。
最後には信仰が耐えられず、姿を消しました。

娘さんは信者の影で(バレバレですが)父親である所長に暴力を振っていました。

余談ですが、何故分かっていて止めないかと言うと、所長は体裁を良くしたい人で、家庭内暴力を必死で隠しているのでこっちも何も出来ませんでした。下手に手を出して余計悪化する恐れもあった為。

話は戻ります…
所長亡き後、40を過ぎていたのですが、縁談が決まりました
相手は社会でもお道でもちょっとした位の有る家庭です。
結局そういう因縁なのでしょう。

一つ下のコメントにも書きましたが、用木が立派に育つ為の「肥料」のような因縁。
うちの所長は上級教会の初代会長より「お前の家は東海並木の肥やしの因縁だ」と教えて下さったとお聞きします。
「並木」では無く、並木を育てる為の「肥やし」です
本人らはなんの事か分かっていませんが、確かにボクらを育てる為の「肥やし」となってくれました。(僕自身はまだまだですが)

教祖は「大社高山あとまわし」「谷底せり上げの道」と教えて下さいました。

現在の身分制度に甘やかされ、何も苦労を知らず育った人達は、全てでは有りませんが、まさにそういう人達なのでしょう。
後回しにされる「大社、高山」の人達です。
それよりも「大社、高山」の言いなりにさせられている「谷底」を救けるための今の仮の道ではないでしょうか?
谷底を救けると言っても今の状態が良くなるだけで本当に救かったとは言えません。
長く積み重ねた神様への残念や悪因縁を取り除かなければなりません。
その為の「肥やし」となってくれる人達ではないかと思います。

━━━━━━ ※5 ━━━━━━

教会に多くのご不満を抱き、教会の人々に辛く当たられるとのコメントへの返事  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

なるほど、信者にお供えしろと言う教会は要するに生活費が足りないからというのもあるのですね。
まか確かに生活するのにお金も必要ではありますからね…

それにしても、ですよねぇ。
教祖は赤貧のどん底に落ち切られやっと手にした米も、何の惜しげもなく人に施されたと、
その中を勇んでお通り下さったと、誰もが聞かせて頂いた話なのに…

父は人間を立てる信仰ではなく、神様を立てる信仰だと教えてくれました。
教祖も「神さんめどやで」と教えて下さいます。

貴方の仰る通り、神様と自分の一対一の信仰心が大切なのでしょう。

本文にも書いた通り、長年所長に苦しめられたボクらは、ついつい神様を見失っていました。所長に気をとらわれず、神様だけを目標として進むように父に励まされました。
そして去年出直しました。

今現在、上級教会より、留守番先生としてある先生が一ヶ月に十日間来て下さいます。
本当に立派な方で、こんな布教所にこんな素晴らしい先生が居ていいのか?というくらいです。
ただ、立派な先生でも逆に神様を見失ってしまうものなんですよね。
「その先生について行けば」と、先生をめどにしてしまいそうで…

いつでも神様をめどに頑張っていきたいと思います。

リエポンさんも随分苦しんでいるご様子
どうか負けないで頑張って下さい
陰ながら応援します。

━━━━━━ ※6 ━━━━━━

新しい教会長夫妻に対する限界から天理教を辞められた方のコメントへの返事 その1  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

今は時間があまり無いので全文読んではいませんが、時間のある時にじっくりと読ませて頂きます。
また、折角コメント頂いたのに返事が遅れてしまった事、お詫び致します。

軽く流し読みさせて頂きましたが、お気持ち凄く分かります。本文にも書いた通り、うちの布教所も長く君臨し続けた所長に、我ら入り込み者はかなり苦しめられて来ました。

ネットを見ているとそう言う人種は多いようですね。
天理教の指導者でありながら、人を苦しめている人達。
人間である事も疑わしいような人達。

ボクはその手の人間を「プレシャス」と呼んでいます。
プレシャスとは「貴重な」と言う意味。
何故そんな人が貴重なのか…

うちの所長はおもてヅラは良いので、参拝に来る信者さん方は所長を信じている方もいますが、毎日のように来て下さるコアな信者方々は内情をよく知っています。

「入り込み者の皆はよく耐えられるね。出て行こうとは思わないの?」と聞かれた事もあります。

確かに正直言うと出て行きたいですよ。

他所の布教所に変わりたいですよ。

所長は「お前らが居なくても布教所は困らないぞ、出て行きたければすぐに出ていけ」とか言ってますが、実際に皆が出て行って一番困るのは彼なんですよね。

そんな簡単な事を考える事も出来ない所長に思い知らせてやりたいですよ。(まぁ、彼の場合はそんな事を言ってもボクらに出て行く気が無い事を知ってて言ってるんですけどね)

所長から離れたい気持ちは皆ありますよ。

でもボクらが信じているのは所長ではなく、神様です。
苦しめよう、困らせようと言う神様ではないと聞かせて頂きます。

「にんけんもこ共かわいであろをがな
  それをふもをてしやんしてくれ 」
「にち/\にをやのしやんというものは たすけるもようばかりおもてる」
(人間も子供可愛いであろうがな、それを思うて思案してくれ)
(日々に親の思案と言うものは、たすけるもようばかり思うてる)

と聞かせて頂きます。
苦しめようと言う神様なら「やってられっか!!」と、所長を2.3回殴って今すぐ荷物をまとめますが、親神様は我ら人間をわが子として、たすけたいばかりだ、と教えて下さる。それならそこは考え直します。

苦しめる神様ではないのであれば、今の現状はなんなのか、こんなに苦しんでいるのは何故なのか?
ただの偶然では有りません。

成って来るのが天の理ですから、きっと一列をたすけたいと思し召し下さる神様に考えがあっての事。

言わば、神様からの試練です。
ボクらも辛いです。
でも一番辛いのは何も分らない可愛い子供にそんな道を与えなければならない神様だと、父親は教えて下さいました。

少し話が逸れるようですが、ボクには可愛い甥っ子と姪っ子がいます。

もうすぐクリスマスなので甥っ子達が喜ぶようなプレゼントを買ってあげたいばかりですが、信仰するものはやはり小さい頃から恵まれてはいけないと言う考えから、いつも買ってあげるのは500円程度のお菓子です。

先日妹とその話をしておりまして、やはり妹も同じ気持ちでした。

本当はすんごい物を買ってあげたい。
でも、子供の将来の為を思うと買ってあげないのが子供の為だとは思う。
でも他人の玩具を見て羨ましがる姿を見るのは辛いのだとか。
で、どうしても買ってあげてしまうらしいです。

うちの両親はボクら兄弟にお菓子や玩具はあまり買ってくれませんでした。
子供に買ってあげるのを我慢して、毎月十万お供えしていた(お供えを強要されたのでも無く)そうです。

家族の生活レベルを下げ、子供達に買ってあげたい気持ちを抑えてのお供えです。頭が下がる思いです。
ボクにそれをやれと言われても無理でしょう。

僕らの徳分を考えるとそれぐらいでなければ通れなかったと思います。

話を戻しますが、神様も同じだと思います。
子供を今すぐ幸せにしてやりたい。

そう考えるのが親と言うもの。
それでは通れない因縁を持つ子供のために、心を鬼にしてこう言う道を与えて下さるのではないでしょうか。

それを考えると本当に有り難く、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

折角辛い思いをして与えて下さっている道を、人間の方から拒否してしまってはいけません。

神様はたんのうの心が大切だと教えて頂きます。

辛いものは辛い!苦しいものは苦しい!
でもその苦しみを十分に味わい、神様の御守護と受取るのがたんのうだと、父は教えてくれました。

ボクがプレシャスと呼んでいる人種は、(本文にも書きましたが)神様が一時的に置いているのだと教えて頂きます。

人間は隔てなく神様の子です。プレシャスも例外ではありません。因縁の心に負けて汚い心を使っている子供を今すぐ出直させてやり直させて上げたい所を、世界一列をたすけると言う、大目標の為に目をつぶって置いてあるのだそうです。

それを考えると、自分の心を、因縁を磨いてくれる人達です。
神様が心を砕いて置いて下さっている人達ですから、本当は有難く、貴重な存在なのですね。

どうか今の現状を神様の御守護と理解し、辛い中も神様に感謝して、神様だけを目標に心を倒さずお通り頂きたく願っております。

長々とえらそうに語ってしまいました。
お許し下さい。

━━━━━━ ※7 ━━━━━━

新しい教会長夫妻に対する限界から天理教を辞められた方のコメントへの返事 その2  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

なるほど、かなり辛い思いをされたようですね。
そのように法外な額のお供えを強要する教会がきっとまだ幾つも存在するのでしょう。考えられませんね。

しかし…
一千万で助けてやるとは恐れ入りますねぇ…
たすけてくれるのは人間ではなく神様ですよね。
もう完全に心に神様が無い証拠ですよね。神様よりも自分を信じてしまっている。

ただ、貴方は天理教を辞めたと仰いましたが、ボクはまだまだ貴方が天理教を辞めたようには思えません。

確かに教会には行かなくなり、形としては「天理教を辞めた」
のかも知れません
しかし、「天理教を信仰」するのは辞めてはいないのではないでしょうか?

天理教とは教会に参拝したりお供えする事が天理教ではないかと思います。
逆にいくら教会に参拝し、お供えをしていても信仰しているとは言えない人もいます。

貴方は前のコメントに「おやさまが大好き」「困っている人がいたら助けたい」と仰っていました。
神様を信じ、教祖の教えを尊び、助け合いの心を忘れない。それは十分「天理教を信仰している」と言えるのではないでしょうか?

「純粋に、おやさまが大好き」
「困っている人を助けたい。」
ボクには貴方が素晴らしい信仰者であるように見えます。

頑張って下さい。

 

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2012年4月23日 (月)

河原町大教会初代会長 深谷源次郎先生

『結構源さん』と言えば天理教信者なら知らない人などほとんど居ない。

 

 

どんな出来事があっても「結構、結構」と通られた方だ

 

 

決して楽な事ばかりでなく、時には言葉に出来ない苦悩を抱えられた時期も有ったそうです

 

 

そんな時でも『結構、結構』との姿勢を決して崩さなかった

 

 

 

 

 

 

深谷先生は後に「斯道会」を結成

 

 

この斯道会、結成までには色々な困難が有ったそうですが、教祖から「清らかな所」と光栄なお言葉を頂いたとの事。

 

 

 

そして晩年には河原町大教会初代会長となられ、多くの信者から慕われた。

 

 

(間違ってたらすみません)

 

 

 

 

 

以前ちょっとした理由で手相の見方なるものを覚えた事が有る

今はもう覚えてない

 

 

本の最後に

 

「手相は変わるもの、例え不幸な手相であったとしても、常に前向きにポジティブに明るい心でいれば必ずや運気は上がり、良い手相になる」

と有った。

 

 

 

天理教の教え通りだ

 

 

 

 神様は人間を真からたすける為に一時的な苦労を与えて下さり、どんな苦労や困難も喜んで通らせて頂く事が後に結構なご守護が頂ける心使いであると教えて頂きます。

 

 

 

 

結構源さんの異名を持つ深谷先生はまさにそれを体現されたお方です。

 

 

 

 

そういえば一時期俺はこんな事を言っていた

 

 

 

「『結構源さん』に習って、俺はどんな時も『素晴らしい、素晴らしい』で通って、『素晴らしいフトシさん』と呼ばれるような人間になる!」

 

 

 

 

とかね。

 

 

よく言うよ…

 

 

 

 

もう今ではそんな事すっかり忘れてしまっていた

 

 

しかし、それでも最近は極力グチを言わないよう、人を悪く思わないよう、どんな事も喜びに代えられるように気を付けてはいる。

やりきれてはいないが…

 

 

と言うか…

ボクにとってお道の上で唯一努力を続けられそうな事ってこれしか無い!

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一度『素晴らしいフトシさん』を目指してみよう!

 

 

 

 

なんて事を言ってたら

 

 

 

 

 

 

 

知人Nが

「じゃあ俺は『ありがたいNさん』になる!」

 

 

 

 

 

 

 

そしたら今度は知人Yが

「んじゃ俺は『いいねYさん』になる!」

 

 

 

 

とか言い出した…

 

 

 

 

 

 

パクリかよ!

 

 

 

 

よかろう、全員で目指そうじゃないか!

 

 

 

 

 

 

時には心から『素晴らしい』とは言えない時もあろう。

 

 

Cocolog_oekaki_2012_04_14_19_19

 

 

 



 

 

 

 

 

例え「嘘」でもいい

口先だけでもいい

 

 そう教えて貰った事がある

 

 

 

 

 

 

 

 

身上不足ありてどうもたんのうは出け難くい/\。(中略)今日もよい/\と言えば、たんのう出ける。悪い中にたんのう治められん。道理と言う。成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。

 

不自由の処たんのうするはたんのう、徳をつむという、うけとるという、これ一つきゝわけにゃならん

 

 

 

と、おさしづで教えて頂いております。

 

 

たんのうとは「十分に味わう」

 

 

 

 

辛いものは辛い!

その辛さを、苦しみを十分に味わい、これも神様のご守護と受け取らせて頂く心を神様は受け取って下さいます

 

 

 

 

 

 

心から『素晴らしい』とは言えない時でも、笑って『素晴らしい』と言えるように

 

 

 

 

 

 

 

不平不満の心は自分を更に不幸にする

 

 

 

天理教では不平不満の心を「不足」と言います。

 

 

 

 

不足とはその言葉通り『足りない足りない』と言っているようなもの

 

 

 

 

足りない足りないと言っていれば本当に『足りない』ようになってくる。

 

 

 

 

 

 

 

愚痴をこぼすのは簡単!

弱音を吐くのはとても楽だ

 

 

 

 

しかし、そこをグっとこらえて『素晴らしい』と言えたらどんなに幸せなことか!!

 

 

 

 

 

 

 

 

意外に口先だけでも『素晴らしい』と言ってると本当に有難いと思えて来る。

 

 

 

教祖のお言葉に

 

                   

いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで。

 

と、有りますように、例えばどこかへ行こうと思った時に雨が降れば誰でも気分は良くないもの。


 

 


しかし、言うまでも無く雨が無ければ人間は生きていけない。

 

雨が降るのも親神様の結構なご守護である

 

 

 

また、農家の方は雨が降らなければ作物が育たない。

自分が雨で気分が悪くとも、中には今日雨が降って良かったと思ってる人もいるかも知れない。

 

 

 

それを考えて「雨か…いや、これもご守護、それにこの雨を喜んでいる人も居るんだ。素晴らしい雨が頂けたんだ!」 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう自分に言い聞かせているうちに、本当に素晴らしいと思えてくる。

 

 

何となく嬉しくなり、神様に感謝出来る心になれる。

 

 

 

 

そんな心でずっと居られたらどんなに神様がお喜び下さることか

 

 

それが後にどれだけ結構なご守護を頂ける元となることか

 

 

 

 

 

 

頑張って続けてみようと思います。

 

 


ランキングへの一票に、ご協力下さい。
downきっとあなたは押してくれる

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 天理教へ
にほんブログ村天理教ブログ



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2012年4月 8日 (日)

ちょっとだけ再開 おさしづにお伺い

お久しぶりです。ほんの少しだけまたお付き合い願えますでしょうか。

ここに書くべきブログネタを頂きました。



のすたるじでも言いましたが、4/7青年会例会に支部長、副支部長が共に不在で、ボクが代理で中心となって行われる事に。





勿論一番最後のお話も指名されてしまった。(終席と言える程の事では有りません)



何を話そうか…

次にこんな機会が有ったら「この話」ってのが有ったけど、それは毎月発行している当布教所の月刊誌の投稿ページに載せてしまった。


何より最近の緩みきった心では、何も話が思いつかない。



そう思ってる時に26日、ご本部(天理教教会本部)に行かせて頂く事になった。

おぢばでもう一度心引き締めようと喜んで行かせて頂いた。



神殿でおつとめをして、教祖殿に座り、深く深く頭を下げた…と、言うよりうなだれた



申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
これからは心入れ替えて…て、言えない。

反省してはお詫びし、反省してはお詫び・・・・・・何度繰り返す気か!





ただただ申し訳ないばかりで頭を上げる事の出来なかった時、ふと、ひとつの思いが胸をよぎった



(「折角話すんだから、カッコ悪い話はしたくないな」という思いが俺には有ったんだな)


話す事が何も無いとか言いながら、実は本当に無いわけでは無かったんです。

ただ、こんな話をすると自分がカッコ悪くなるから、折角思いついた話をいつの間にか自分でどこかへ隠してしまっていた。



そうか、こんな心が有ったんだ!この心がいけなかった!

それならもう、どれだけカッコ悪い話でもいい!「所詮藤太郎」「結局藤太郎」と言われようと、神様の話をしっかり伝えられる話にしよう!

自分はどんな風に思われてもいい、神様にお喜び頂ける話をボクに教えて下さい!



そう教祖にお願いして帰り、すぐに話を考えたところ、スラスラと思い付く。

これはやっぱり親神様や教祖が教えて下さっているんだと、本当に思えた。


ただ、それでも何度か心が緩みそうになります。

そんな時は神殿に座って、心を集中させます。



そんな時、ふと「今神様が何か教えて下さるのではないか?おさしづを開いいた方がいいのでは?」という思いが頭をよぎった。

おさしづを開いたところ




これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。


とのおさしづが




ビックリした!

  確かに軽くしていた。考えてみれば話の中に埋め合わせのようにおさしづを入れていたように思う。





そんなこんなで何とかお話は完成しました。



いざ当日の夕方になってふと思った。
今まで青年会例会を単に月例行事だと軽くしていたが、青年会として大切な行事の筈だが、この日に支部長、副支部長ともに不在とは、何か節を迎えているのではないか。神様の大きな思惑が有るのではないか。

そう考えながら女鳴物の準備をしていたら胡弓の糸が切れてしまった。


うわ~~




自分は特に大きな節目なのかも…
先案じはいけないと分かっていながらもやはり不安を感じざるを得ない…
あの時のあれがいけなかったのか?ここがいけなかったのか?これからどうやって通るべきなのか?


そんな思いが交錯していたその時、またまたふと神様が何かを教えて下さる気がした

神殿に座り、おさしづを開く。
その時のおさしづ





さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\尋ねる処は、余儀無く尋ねるであろ。まあ一つどういう事にも何よの事もどういうもので、こういう事になると思う。思うやない。どんな事も、こんな事も、世上にも同じ事、中に一つ、まあ危ない処も遁れるは、年々の道理で遁れる。どけな辺所な所、もう危ない所でも、残りて来るは頼りた理である。又、わき/\の処、内々何故であろうと思う。思うやない。必ず思うやない。どんな難しい中でも、抜けて救かる処、聞き分けにゃならん。何でこういう事になると必ず思わず、よう聞き分け。道というは、世上は同じ一つ通りて居る。頼りありても分からん。こんな事と思う。思うやない/\。どんな事あろうが、この心理に皆一つの理なら、明らかなる処に成る程に。案じな/\。安心して居よ/\。どんな事あろうが、こんな事あろうが、道の上ならどんな事あろうが、理が残る。末代の理、この理聞き分け。一代と思たら長いようで短い。短いようで長い。この道の一つの理、なか/\艱難通らして暮れた者もある。これも名残れば末代の理。あちらの書物、こちらの書物に届く理残る。留まる理治まったる。こんな事と思うやない。これだけ、丈夫な心持ってくれるがよい。










おおおおお…


そうか、安心してていいのか…
 
そんで、余計な人間思案は要らなかったんだ

細かく詳しくは分からないけど、ものすごく有難いおさしづに心がスッとした



いや、待てよ

ボクの場合親父がおさしづを本気で研究しているからこそおさしづにお伺いする事を知った。

もしこれがなかったらおさしづなんて見向きもしなかっただろう…


そうなったらあれがダメなのか、これがダメなのか、案じの心ばかりで、ドンドン神様のお心から離れていってたのだろう。



分からないながらもおさしづを勉強してきて良かった。


親父は人から「ちょっと気が狂ってる」とか「頭おかしい」とか言われた時期も有ったけど、それでも人の顔色など見向きもせず、真っ直ぐに神様を見つめ、おさしづの研究を続けて来てくれたからこそ今のボクが有る。

どんな時もおさしづに従いたいと思えるボクがいる。


そして今では親父の書いたおさしづの解釈した文章を求めて読んでくれる人がいる!

ある人は…

両親を亡くし、自殺まで考えていたが、それを読んだら本当に心が楽になり、地獄から天国に来たように今は幸せな気持ちでいられると言う



またある人は…

読んでいたら神様の有難い親心に涙が止まらなかったと言う




かつて親父の事を「気が狂っている」と言っていた人も今ではそれを真剣に読んでいる。






自分だけではおさしづの大切さなど気付きもしなかっただろう。

親父には感謝してもしきれない!

そして、これからも、どんな時も神様のおさしづに従いたいと思います。


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2012年2月24日 (金)

おさしづ全文

おさしづ全文がダウンロード出来ます。

左のサイドバーにリンク集が有ります。その中に「おさしづ全文ダウンロード」のリンクがありますので、そこからダウンロードページへ移動して下さい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2011年9月25日 (日)

善いタネと悪いタネの処理方法で変わる幸せな生き方

人間は、心一つは我がの理と許されてくらすうちに、善き種もまけば、悪しき種もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。(天理教教典より)



世間一般にも因果応報と言う言葉が有ります。


いい事、いい心遣いをすれば、巡り巡っていい事が起きて来る。
悪い事、悪い心遣いをすれば、悪い事が起きて来る。


これを天理教では「種」と教えられます。



人間は普段から何気なく善い種、悪い種をまいています。

それは必ず我が身に返って来ます。
それが種と言う物です。







←──→○←──→○←──→○←──→○←──→○←──→

先日、東京の某大教会にて青年会総会が有りまして、参加させて頂きました。


この詳細は後日、『青年会総会in東京』
とでも題して書き込みたいと存じております。…が、




その前に、その日聞かせて頂いたお話の中で、なるほどと納得し、実に感動した一部分を紹介させて頂きたいと思います。


←──→○←──→○←──→○←──→○←──→○←──→



それは「種」のお話です。


普通、作物を作る時、種をまいて、土を被せます。
そして芽が出て、花が咲き、実が生ります。

もし土を被せず、太陽にさらしてしまえば、枯れて芽が出なくなってしまいます。



人と言うのは良い事は他人に自慢したくなります。


悪い事、悪い部分と言うのは隠したいものですね。





                 Cocolog_oekaki_2011_09_25_22_00





土を被せず、人目にさらした(太陽にさらされた)良い事、いい行いは枯れてしまい、芽が出なくなります。芽が出ないから、折角種をまいても実が生りません。


そして、土をかけて隠してしまった悪い事はしっかりと芽が出て、花が咲き、実が生ります。


後になって不幸な出来事が起きて「なんでこんな事になるんだ!」と怒ったって、全て自分の行いと心遣いが原因ですから誰にも文句は言えません。




それを嘆いて、運命を呪ってみたって、またそれは悪い種として自分に返ってきます。


起きてきた事に不平不満を言わず、満足たんのうの心を治める事で神様は懺悔として受け取って下さいます。





逆に悪い行いや悪い心遣いは人にさらし、笑われて、そしられる事で種は枯れて消えてしまいます。


良い事は土を被せてそっとしておきましょう。いつか大輪の花を咲かせてくれます。いつか素晴らしい実を生らせてくれます。






そしてもう一つ。



人と話をする時は、その人が喜んでくれる話し方をする事で自分が「人を喜ばせた」と言う種になります。

人から嫌な事を言われても、怒らず、喜びの心で聞く事で、その人に「人に嫌な思いをさせた」と言う種をまかせずに済みます。





と言う話も有りました。



人から何かを言われると、「おめぇに言われる筋合いねえよ!」と内心で思います。するとその人は「人に嫌な思いをさせた」と言う種をまいてしまいます。


まいた種は勿論その人に返って来ます。


「ざまぁ見ろ!」と思うでしょうが、それではまた悪い種が繰り返されてしまいます。
自分も嫌な気持ちを使っただけは悪い種として芽生えてきます。


もし自分が怒らずに、「イヤ、こんな事を言われるのも過去に自分でまいた種なんだ」と、治めていれば、その人は悪い種をまかずに済みます。
でもそれは自分が治めたのだから、まかずに済んだのです。
「人救けたら(たすけたら)我が身救かる(たすかる)」と教えて頂きますので、それは善い種として必ず自分に返って来ます。


更に言えば、言われた事を喜んで受け取れば、その人は人を喜ばせた事になり、その人に善い種をまかせた事になります。
それは更に善い種となって、自分にも返って来ます。





と言うお話でした。


…まぁ、理屈じゃ分かっていても、やっぱりカチンと来ますけどね。




それでも神様を信じて出来ないながらも努力させて頂けば、神様は受け取って下さいます。
そして手を引いて下さいます。




その心を忘れず、いつもそんな気持ちで過せたら、きっと幸せなんだろうなと思いました。













←──→○←──→○←──→○←──→○←──→○←──→







ところで!



話はガラッっと変りますが、先日ある方が、ボクの駄ブログにいつも適当に描いてUPしている絵を、評価して下さいまして、調子に乗りやすいボクは、やはり調子に乗って、いつもちょっと空いた時間に描いている落書きを今日はUPしてしまいたいと思います。




電話番をいつも交替でしているのですが、使わなくなったメモ用紙などに適当に描いてる落書きがありまして、捨てようとすると「折角良い絵が勿体ない」と言う人がいるので何枚かとってあるんですが(早速自慢してます…今日のブログの内容なんだったっけなぁ)



それをワザワザ写真に撮ってしまいました。









003

金村高男さん(51)と三年前に飼い始めたにも関わらず、まだ名前を付けてもらってない犬と、何故か奥さんを怖がるメイドの山田さん



002
金村産婦人科医院の院長富代さん、高男さんの奥さん。長男の安男君(ニート)は父になついている犬が恐い。

004
ある日の新聞の別冊にバレリーナが載っていたんで、それを描いた。顔は遊び心ですw



001

斜暮惣右衛門(シャクレ ソウエモン)さん。あごのしゃくれがチャームポイントだと本人は言う。しゃくれっぷりばかり気にしているので、「しゃくれ惣右衛門」の異名が付けられたが、以外にも本名と全く一緒だった事に、本人が一番ビックリしている。

















はい。かなり話が脱線してしまいましたので、今日はこれにて…

ランキングへの一票に、ご協力下さい。
downきっとあなたは押してくれる

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 天理教へ
にほんブログ村天理教ブログ



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月22日 (木)

神様の思いを求めて


毎日分からないながらもおさしづを読ませて頂く。
(よく脱線するけど)

本当に分からない…読んでてさっぱり。









父が毎日おさしづの研究をしている。

毎朝3時に起きておさしづを読み、昼は御飯を食べずにおさしづを読む。

ほとんど自分のことなんかやる暇ないし、やらない。

風呂と食事だけ。テレビもほとんど見ない。

ボクが学生の頃の父はあんなにテレビが好きで、中日ドラゴンズが好きだったのに、おさしづを読み始めてからは、本当に見なくなった。

酒も煙草もきっぱり辞めておさしづに没頭している。

毎日おさしづとにらみ合い。

その父が言っていた。

おさしづの中で分からない言葉はおさしづで調べる。

「なんのこっちゃ!」って思うけど…






         Cocolog_oekaki_2011_09_22_13_56      

例えばおさしづに『神一条』と言う言葉が出て来る。

人間的に知恵だけで考えれば意味だけは理解出来るかも知れないが、神様のお心にある『神一条』とはどんな意味を示すのか?

知恵や学問だけでは分からない。

そこで『神一条』と言う言葉が出て来るおさしづを一つに纏めて読ませて頂く。


すると父曰く、『神一条』の意味がよく解るそうです。












そう聞いて色々と調べてみるも…やっぱり分らん!





でもボクの場合、分らないと思って投げ出すからダメなんですね。
同じく弟がおさしづの中に出て来る『誠』という言葉の意味を調べていて、朧げながらにも分かって来た事を教えてくれた。










ここはああで、ここはこうで…とか。







      Cocolog_oekaki_2011_09_22_14_23






すごいなぁ。俺全然わっかんね~


俺はそう言う理解力がないもんで…やっぱり駄目だな。







って言ったら、弟が

「俺も分らんかった」って










以前に彼は自由自在(じゅうようじざい)と言う言葉を調べていた。


確かにあの時は「分からん」と言っていた。






しかし、分からないながらも読み終わってみると、何となく頭に入っている、「こう言う事なのか」と自然に浮かんで来る。


と、弟は言う。








確かに、考えてみれば頭が良ければ出来る道じゃないし、頭が悪ければ出来る道でも無い。


おさしづに




深き何でも十分の学をし、十分の学を治めよう。智者学者あっても何にも治まらせんで。













とあります。







分からなくても、低い心で必死に神様の思いを求める。

その心を神様は受け取って下さるのではないでしょうか。







木の根っこの話を父から聞いた事がある。



木の根っこは水を求めて、下へ下へと根を伸ばす。






お道も一緒で、低い低い心でただ我武者羅に、ハングリーに神様の思いを求めるのだ
…と。







また、人の体は食事で栄養を摂り、体が丈夫になる。

心は神様のお話を聞かせて頂いて心が強くなる。

…とも。







ボクなんかは弱~い弱~い人間心でして、神様のお言葉はこうだけど、実行する事が出来ない。

人間心にいつも負けてしまう。





しかし、毎日神様のお話をお聞きして、「なるほど」と納得し、心に治める。

それが心に栄養となって、強くなるそうです。

そう言えば以前のボクは神様のお言葉を勉強しようとか全く考えていなかった。
…が、今は(時々脱線しながらも)何とか神様の思いに近付きたいと言う意識になって来た。

ちょっとしたきっかけなんですよね。

 
 
ちょっとの心の向きを神様が大きな力で支えて下さると、父が教えてくれた。

だからやっぱり分らなくともおさしづを勉強し、神様の思いを求める事が大切な事だと思います。


ランキングへの一票に、ご協力下さい。
downきっとあなたは押してくれる

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 天理教へ
にほんブログ村天理教ブログ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧