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2011年7月14日 (木)

ゴミ拾いでも心得違い

とある布教所に住み込みで修行中です。修行なんで何曜日休みとか有りません…基本は盆と正月に一泊二日、あとはGWなどに休みを一日、二日貰えるのですが、あれは数年前の盆休みを貰った朝の事でした。



父が朝の神殿掃除に来ていたので帰りは一緒に乗せてもらうことに…



父は道中突然車を止めて「ゴミを拾う」と言い出す。
なるほど噂には聞いていた。いつも朝の神殿掃除の行き帰りに道端に落ちているゴミ拾いをする…と。

車の後部座席には、ちゃんと分別して捨てられるよう3種類のゴミ袋
はは~ん、準備万端なわけね。



俺もやろ~っと、って感じで2,3分。
父も仕事が有るので長時間出来ませんが、そこそこ綺麗にしまして…

さあ帰ろうかとまた車に乗り込んだ拍子に、ボクが一言発する。




「何故人はこんな所にゴミを捨てるんだろう…一体どんな神経してるんだろう?」





(ああ、いい事した…)と調子に乗ってたボク。
人の愚かな行いについて語る親子。なんてかっこいい…

しかぁし!
父の返事は意外なものでした。





「そんな事を思っちゃいかん。」





ありゃりゃ( ̄ー ̄;)ゞ

てっきり「そうだなぁ」とか言ってくれるかと思っていたボク。



でもそれは間違っていました。





父曰く

誰かがゴミをほかって行く、勿論いい事ではない。
そのゴミを見てまた次の誰かが不快な思いをすれば、ゴミをほかった人はその分、因縁を積んだ事になる。

ボクらがゴミ拾いをさせて頂く。

「誰かがゴミをほかってくれたお陰でこうして今日もゴミ拾いが出来る。」
「今日もゴミが落ちているお陰で神様の御用が出来る。」

そうして喜んで、ゴミをほかった人に感謝して拾う事で、ゴミをほかった人は、僕らを喜ばせた事になる。


人を喜ばせた分、その人は徳を積む。

本来なら因縁を積むところを、逆に徳積みに変える事が出来る。

因縁を積まずに(僅かながらも)徳を積めたのだからその人を救けた事になる。


そして「人救けたら我が身救かる」
のお言葉通り、自分も救けて頂ける。

なるほど
そして、それはゴミ拾いだけでなく、色んな場面でも言えることだなと思った。



教祖が
[人間は嫌なものを見ると、すぐに嫌やなあと思い、嫌な事を聞くと、すぐに嫌やなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。嫌なものを見、嫌なものを見せられた時、嫌やなあと思う前に、ああ見えて良かった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。嫌な事を聞いた時も同じ事、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由(じゅうよう)の守護が頂ける道になるのやで。](省略)


また
[どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで]

と教えて下さいました




例えゴミ拾いや、人の為になる事でも、不平不満やグチの心でやっていては返って来るのも喜べない出来事ばかり。
逆にほんの些細な事でも喜んでやらせて頂けば、また喜びとなって返って来る。


喜びは喜びとして、この世を巡り、循環する。
不足の心は不足として循環する。



どんな事も心次第、折角なら神様に喜んで頂ける心でやらせて頂かなければ…
それを父に教えて頂いた、あの日の出来事でした。








この父の言葉が今に生かされているかどうかは…恥ずかしいから内緒である。









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